最初の一撃は、ミサイルではなかった
2022年2月24日、ロシアがウクライナへの全面侵攻を開始する数時間前、最初の攻撃はすでに始まっていた。標的はウクライナ軍が使用していた通信衛星システム「ViaSat」だ。ロシアのサイバー部隊は軍用通信を麻痺させるマルウェアを送り込み、ウクライナ全土のモデム数万台を使用不能にした。副産物として、ドイツの風力発電会社5,800基の遠隔管理システムまで機能停止に追い込んだ。
ミサイルが飛ぶ前に、サイバー空間では戦争が始まっていた。
この一件は、21世紀の地政学が何を意味するかを象徴している。現代の覇権争いは、マッキンダーが描いた「陸の支配」やマハンが論じた「制海権」だけでは語れない。戦場は目に見えないデジタルの海底ケーブルへ、グローバルサプライチェーンの深部へ、そして希土類元素の精製工場へと拡張されている。この章では、古典的な地政学概念を現代に接続する「新しい語彙」を整理する。
チョークポイント:グローバル経済の急所は変わらない
古典的な概念でありながら、その重要性が増し続けているものがある。チョークポイントだ。
世界の原油の約2割が通過するホルムズ海峡の幅は、最も狭い部分で約39キロメートルしかない。東京から横浜までの直線距離とほぼ同じだ。その細い水路が「詰まる」だけで、日本は数週間以内に石油備蓄の枯渇に直面し始める。これがチョークポイントの本質だ。地球規模のサプライチェーンが、地図上のほんの一点に集中している。
マラッカ海峡もまた、中国の戦略的悪夢の震源地だ。中東から輸入する原油の80%以上が通過するこの海峡の制海権は、米海軍とその同盟国が握っている。中国が「一帯一路」でパキスタンのグワダル港やミャンマーの天然ガスパイプラインに莫大な投資をしているのは、経済的合理性だけではない。マラッカ海峡を迂回する代替ルートを確保するための、地政学的切迫感が背景にある。
ここで見落とされがちな事実がある。現代のチョークポイントは、物理的な海峡だけではない。インターネットトラフィックの95%が通過する海底ケーブルは、特定の地点に集中している。ホルムズ海峡近海を通る海底ケーブルが切断されれば、中東と欧州の通信インフラが同時に打撃を受ける。「見えないチョークポイント」が、21世紀の地政学に新たな次元を加えている。
バッファーゾーン:大国の「緩衝材」にされる悲劇
地政学には、「緩衝地帯(バッファーゾーン)」という冷徹な概念がある。隣接する大国同士が、互いに直接衝突しないために、その間に置かれる国家や地域のことだ。
ウクライナはその典型例だ。ロシアにとって、ウクライナがNATOという西側の軍事同盟に加盟することは、モスクワの玄関先にNATOの軍隊が展開することを意味する。歴史上、ナポレオンもヒトラーもウクライナを経由してロシアへ侵攻した。ロシアの指導部にとって、ウクライナは「緩衝地帯」でなければならないという衝動は、プーチンという個人の思想を超えた地理的強迫観念だ。
問題は、緩衝地帯にされる側の国家には、その運命を拒否する主権があるという事実だ。ウクライナはロシアの緩衝材であることを拒否した。その衝突がどれほど凄惨な結果をもたらしたかは、歴史が証明している。
「自国が大国間の緩衝地帯として機能させられているのではないか」という問いは、小国・中規模国家の指導者にとって、最も重要な地政学的自問のひとつだ。
資源地政学:新しい「石油」を巡る暗闘
20世紀の地政学が石油を巡る争いだったとすれば、21世紀はより複雑な「資源地政学」の時代だ。
レアアース(希土類)の精製能力の85〜90%を中国が握っている。F-35戦闘機のレーダーシステムから電気自動車のモーターまで、現代文明の中核技術はこの17種類の元素なしには成り立たない。2010年、尖閣諸島沖での漁船衝突事件が発端で、中国が日本向けのレアアース輸出を事実上停止した際、世界は「資源依存」という地政学的急所を突きつけられた。
だが、より深刻な戦略資源が半導体だ。最先端の半導体(5ナノメートル以下)の製造は、台湾のTSMCと韓国のSamsungがほぼ独占している。これが意味することは何か。台湾海峡で有事が起きれば、世界の先端半導体供給が止まり、自動車・スマートフォン・軍事システムのすべてが生産停止に追い込まれる。台湾という「島」が、軍事力でも経済力でもなく「製造能力」によって、世界最強の抑止力を持っているという逆説的な事態が生まれている。
米国が2022年に発動した対中半導体輸出規制(EAR規制の強化)は、この資源地政学を背景にした戦略的な動きだ。単なる経済制裁ではない。中国が軍事目的に使う可能性のある最先端チップ製造技術を、中国から永続的に遮断しようとする「技術の封鎖」だ。
サイバー地政学:第五の戦域
陸・海・空・宇宙に続く「第五の戦域」として、サイバー空間は国家の安全保障戦略の中核に組み込まれた。
2017年、ロシアの軍事ハッカー集団が放ったマルウェア「NotPetya」は、当初ウクライナの企業を標的にしていたが、瞬く間に世界中に拡散した。デンマークの海運大手マースクのシステムを完全に麻痺させ、その損害は3億ドルを超えた。工場のコンベヤーが止まり、病院の電子カルテが消え、ATMが使えなくなった。一行のコードが、物理的な爆撃に匹敵する経済的破壊をもたらした。
国家支援を受けたサイバー攻撃の特徴は「平時と有事の境界線を消す」ことにある。電力網への侵入、金融システムへの攻撃、選挙インフラへの干渉——これらは宣戦布告なしに行われ、攻撃元の特定(アトリビューション)も容易ではない。軍事力の行使には国際法の制約があるが、サイバー攻撃の「法的グレーゾーン」はいまだに国際社会が整備しきれていない領域だ。
中国の「グレート・ファイアウォール」やロシアの「スプリンターネット」構想は、この文脈で理解すべきだ。それは単なる検閲ではない。外部からのサイバー攻撃に対する「デジタルの城壁」であり、同時に自国民の情報を国家が管理する「デジタル主権」の確立だ。自由民主主義のインターネットとは、根本的に異なる「情報空間」の構築が進んでいる。
相互依存の武器化:平和の絆が兵器に変わる日
冷戦終結後、欧米の学者と政策立案者たちは「経済的相互依存が深まれば戦争は減る」という自由主義的平和論を信じた。貿易でつながった国同士は戦わない、という論理だ。
現実の指導者たちは、その「絆」を縄に変えた。
これを「相互依存の武器化」と呼ぶ。ロシアはノルドストリームを通じた欧州へのガス供給を地政学的レバレッジとして使い続けた。中国は2020年、新型コロナウイルスの起源を調査するよう求めたオーストラリアに対し、石炭・ワイン・牛肉の輸入制限という経済的報復を行った。米国も同様だ。SWIFT(国際銀行間通信協会)というドル決済ネットワークからロシアを締め出した行為は、経済制裁を武器として使った典型例だ。
ここで重要な教訓がある。「経済的相互依存は戦争を防ぐ」という命題は半分正しく、半分間違いだ。相互依存が「対称的」な場合——つまり両国が等しくお互いに依存している場合——は抑止力になる。しかし「非対称的」な場合——一方が他方に大きく依存している場合——は、依存度の高い側の急所となる。欧州のロシア産ガス依存は後者だった。
デリスキング:完全切断より賢い選択
「デカップリング(切り離し)」という言葉が2018年頃から流行した。中国への経済依存を断ち切り、サプライチェーンを本国または同盟国内に戻すという発想だ。
しかし現実の政策立案者は、すぐに壁にぶつかった。中国は世界最大の製造国であり、最大の消費市場でもある。完全な切り離しは、自国経済へのダメージが大きすぎる。
そこで台頭した概念が「デリスキング(リスク低減)」だ。すべての貿易を断つのではなく、半導体・レアアース・バイオテクノロジーといった「急所」に絞って依存度を下げる。同盟国・同志国との間でサプライチェーンを組み直す「フレンドショアリング」だ。欧米のCHIPS法、IRA(インフレ削減法)、日本の経済安全保障法は、すべてこの文脈で読むべきだ。
デリスキングが難しいのは、それが長期戦だからだ。新しい半導体工場を建設するには10年近くかかる。レアアースの精製拠点を立ち上げるには、環境規制との闘いも含めて数年を要する。中国はその間、価格を引き下げて新興の競合他社を潰そうとする。経済合理性だけに任せていれば、「フレンドショアリング」は何度でも頓挫する。
地政学的な目標を達成するためには、経済合理性に反してでも国家が補助金を投じ続ける政治的意思が必要だ。現代の地政学は、軍事力だけでなく「産業政策」も国家安全保障の道具として問われる時代に入っている。
多次元の戦場で、何を守るのか
古典地政学は「領土を守れ」と言った。現代地政学は問いかける——「何を守るのか」と。
領土か、エネルギー供給か、半導体の製造能力か、海底ケーブルのセキュリティか、データそのものか。答えは「すべてだ」だが、資源が有限である以上、優先順位をつけなければならない。
日本で言えば、ホルムズ海峡の封鎖は石油の危機であり、台湾有事は半導体と地理的な最前線の危機であり、海底ケーブルの切断は通信インフラの危機だ。これらのリスクは並列ではなく、複合的に絡み合って発生することもある。
21世紀の地政学は「複数の戦場が同時並行する総力戦」の論理で動いている。その複雑さを理解することが、現代の世界を読む最初の一歩だ。